悩みの種

最近、悩みがある。

 

片田舎のスーパーマーケットに行った時のことだ。

買い物をしていると、前を歩く女性二人から今晩何を食べるか、という話が聞こえてきた。すると一人の女性がおもむろに話だし、「私、あれを食べたいわ。あのフランスでよく食べる、蒸しパンあるじゃない?」

 

僕はなんの話かとたんにわからなくなって、買い物も手につかなくなってしまい。帰ってすぐに調べてみた。

いま、フランスでは蒸しパンがはやっているのか?

フランスでは蒸しパンがバゲット以上にたべられているのか?

 

僕が知らないフランスの話をこんな田舎で耳にする衝撃と、その実情にも衝撃をうけた。

だけども、調べても中華系蒸しパンしか該当せず、真相は謎を極めている。

 

友人にその悩みを打ち明けたところ、「私も悩んでいる」と切り返された。内容は以下の通りだ。

とあるカフェに入り、煙草を吸おうと喫煙室に向かった。喫煙室の入り口付近に3、4人組の女性らが座っていて、何やら話をしていた。友人が通りすぎようとしたところ、その女性らの1人が「私、最近DNAを修復する音楽を聴いてるの~」と喋り出したという。心理学を生業とする、その友人は学会に提出すべきレベルであると判断し、大変悩んだという。

 

フランスの蒸しパン並びに、DNAを修復する音楽。

この2つのテーマが、僕の最近の悩みである。

 

有識者求む。

 

 

キモい絵

キモい絵を見つけた。

 

僕は何年も東京にいたが、上野の西洋美術館に訪れることは無かった。

建物に興味はあったが、行われる企画が悉く興味を引かなかったからである。

 

先日も今回こそはと思って調べてみると、「プラド美術館展」とのこと。

「スペイン由来の絵画か・・・」と思い、おそるおそる蓋を開けてみれば、メインは「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」であるとな。

見れば、ぶくぶくと太った子供が、嘶く馬に跨って、ドヤ顔をしてこちらを見つめているのである。背景にはピレネー山脈らしき山々が描かれ、「これを馬で越えてやる!」とでも、言いたそうである。

 

マジでキモい。

 

今回ばかりは、「興味の無さ」というよりか、「気持ち悪さ」が勝った。

マニエリスムの時期の絵画、ルネサンス後期の絵画(メディチ家が隆盛した時代)も含め、どうもこの時期の絵画は生理的に受け付けない。

 

近い時代でも、ロココのようなアホっぽさ。

バロックのような下衆さ。

これらの方が人間的で愛らしい。

マニエリスムについて言えば、どこか自然を凌駕してやろうと、手を加えすぎていることが「キモさ」の原因なのだと思う。

 

そう「キモい」のである。

二村ヒトシ氏著「すべてはモテるためである」という本の中で、モテない理由を一言で冒頭に記述している。

「なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルイからでしょう」と。

この「絵画のキモさ」と「もてない人のキモさ」は要素を還元していけば同じものであると考えた。

 

二村氏は本書の中でキモさについて自己評価と現実のギャップを通して論述している。

つまり、もてようとしてうわべを色々取り繕っていくことで、かえってその欠点、言い換えれば穴が目立ってきて、さらにその欠点・穴を埋めようとして、ほかの穴が見えてくる。そんなことを繰り返すことで、いびつさが生まれて「キモく」なるのである。

自己評価と現実を自身によって乖離させていってしまっているのである。

 

このカルロス騎馬像においても、同様に「キモさ」を醸し出している。

子供の弱さや幼さとは決して消えるものではなく、それを隠そうと馬に乗せ、その馬を嘶かせ、権威ある服を着させ、ピレネー山脈を描いてみたり・・・と、取り繕いが複合的に交差し、もはや描かない方が良かったのではないかと思うくらいの「いびつさ」がそこにはある。

カルロスも騎馬も、もはや王太子さえもいびつさの中に消え、巨大な「穴」しか描かれていないのである。

 

自然を凌駕しようとした結果が、自然の複合性、思惟性、偶然性・・・そうしたものを絵の中で隠していくことで、逆にそれらがあらわになってきてしまっている。彼らが描きたかったものとは、真逆のものを描いている事に気づいていない。

それすらも自己評価と現実のギャップとして現れている。

 

これがマニエリスム系絵画の「キモさ」の由来であろう。

 

自覚的に理想を作り上げること、と

無自覚的に理想を作り上げることは全く違う問題であり、

後者は圧倒的なまでに「キモい」。

 

 

ここまでキモさを感じさせてくれる絵を見たのは久しぶりだったので、

「実物を観なければ!」とも思った。

しかし、あれはあれで高価なので

僕の吐瀉物で絵を汚してはいかん!と思い、

見に行くのはやめた。

 

 

 

 

 

日陰の行方

日向に生きる者の生き方はたくさんあるけれど、日陰に生きる者は一体どのように生きていけば良いのだろうか?

 

と、日々思うのです。こうゆうことを書くとポジティブメッセージという無意味な言葉をかけられるのですが、そうゆうことを言われたいわけではなく、ただ、そう思う人は少なからずいるとも思うのです。

 

例えば、「殺人は悪だ」と考えられているわけですが、自分が殺人者になる可能性を考えたことはあるでしょうか?というとまたまた、「そんなことを考えることは不謹慎だ」と言われるわけですね。でも、言いたいのは「お前、それ思考停止してるぞ」って言いたいわけです。可能性としてゼロなんてことは神でもない、いや神でさえもわからないかもしれないのです。そうやって道徳的観念を持って生きていくことが普通なのでしょうが、そうゆう器用なことができないわけなんです。そして、考えることさえも道徳に縛り付けられ、許されないというのならば、こんな国からはさっさと出ていこうとも思うのです。

 

話を戻して、先に、なんで殺人という話題を持ってきたのかというのも、私は新聞の切り抜きをしてまして、いくつかあるカテゴリーの一つに「矛盾する法」という分類があるんですね。そこには事件に関する記事を収集していていまして、法というものの無矛盾性をあぶり出していくスクラップブックになっているんです。

 

そんな記事の中には「光市母子殺害事件」や、名前のつかない事件がいくつもスクラップされているのです。老々介護のなか、助けを求めることもできず、介護に疲れはて心中してしまう事件、受験戦争に巻き込まれ親の大きすぎる期待度に疲れた子供が親を殺してしまう事件。読んでいてやるせない気持ちになります。

 

これらの記事はやりようのない怒りとも悲しみともつかない気持ちを抱かせ、私はしばらく茫然とさせられるのです。殺すことがもちろん良いわけではないけれど、そうするしかない、という選択の余地がない環境がそこにはあるわけで、それを見ない振りをしていくことはあまりにも愚鈍なことだと思うのです。そんな環境があることを考慮することなく、「殺すなんてひどいよね」の一言で済まされることほど刹那なこともないと思うのです。

 

それらの記事は、また私にこう言うのです。

「あなたが当事者になる可能性もある」と。

 

もし私が病気になって働けなくなり、身寄りもなく、誰にも助けを求める人がいなくて、あまりにもお腹がすいて財布には10円しかなかったら。電気も水道も止まり、住むところもなくなり、考える余裕すらなくなって。

 

こんなとき私はどんな行動をとるのだろう。 

 

こんな想像は考えたくはないけれど、そうならないという可能性はゼロではないんですね。