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啓示・πの告白

 

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24Kの巨大なπ(円周率)が現れた。

蜜の味は甘いのか?

東濃に来てからコメダに行くことが多くなった。スタバよりコメダのほうが多く、居心地の良さも相まって長居してしまうこともしばしばである。他人の話が自然と耳に入ってきて、都合の悪いこともあれば、大変興味をそそる内容であることも多い。

 

そんな折、コメダに入ると後ろの席に陣取って何やら熱心に話しこんでいる四人組みがいた。

 


「俺は月150万稼いだこともある」
「これからの新しいビジネスだ」
「俺の師匠は会社を14個経営しながらこのビジネスをやっている」

 

 

え?!、と思って聞いていれば、どうもこの新しいビジネスというのはネットワークビジネスなるもので、店舗を持たず、個人が問屋として機能するビジネスだという。つまりはインターネットで物を売るということらしい。そしてまた、誰かを紹介し問屋として契約すれば、そこに紹介料というお金がもらえるとのこと。

 

 

おいおい、これはネズミ講じゃないですか。
時代と共に名前を変えて存在し続けるネズミ講マルチ商法とも言います。つぎはネットワークビジネスと名前を変えて存在しているようだ。
このコメダで行われていた熱演は親が子を勧誘する場と成り代わっていたのです。熱心に聴いていた若者はまだ大学生だろうか。学校でも家庭でも、こうゆうマルチのことは教えてくれないので知らずうちにつかまってしまうこともあるのだろう。
マルチの怖さは人間関係を食い物にするところである。家族、友人と手当たり次第に、無自覚に勧誘し孤独になっていく。ネットワークビジネスといえども、やはりそれはネズミ講からずっと続く共通点であり、怖いところである。

 

 

「マルチとかじゃないよ。マルチっていうのは悪い商品をうりつけるけど、ここの商品は健康食品でもすごくいいものを扱ってるから」

 

 

と、熱弁を奮っているのだが、これこそ「マルチ」なのである。
マルチが扱う商品はいつの時代もB級品であり、良くも悪くもない商品である。

 

 

あまりある誇大演説とそれに猛烈な関心を示す若者に、心配を通り越して笑うしかなく、咳き込んだフリをして誤魔化し、注文したコーヒーはただひたすらに冷めていくのであった…。

国の中の中身

テレビを少し観るようになった。文化という側面からみていると、やたら京都的文化を日本の文化として扱っていることが多いことに気づいた。
京都的文化とは、公家の文化である。べつにそれが悪いと言いたいわけではない。紛れもなく日本国で発生し、現在に至る文化の1つである。

だけれども、日本にはそれ以外の文化、例えばアニミズムがあったり、大和絵のような農民の文化もある。吉原のように商人の文化としての性風俗もある。

文化庁を京都に移転させようとするのも、その一つの例であり。
日本の文化の中心は京都であることを国内外にアピールするほかないのだろう。

確かに、国家という概念を持ち出して考えてみれば、日本が国家たりうるために自国の文化を持っているプライドは維持しなければならないし、他国に紹介しようとすれば、京都的な文化はわかりやすい。そして、この国の象徴である天皇制にもつながる。

我々、日本人は単一民族国家である。

ということもいえる。
ぼくらは天皇の子供であると、そうゆう文化体系がこの国が国家足りうる条件であり、それが他国に対する文化レベルを矜持させるプライドになっている。

ちょっとまて、これはナショナリズムだろ。

日本は単一民族国家ではない。
沖縄人が自分たちを「ウチナンチュ」と言うように、沖縄人は私のことを「ヤマトンチュ」と呼ぶ。沖縄は沖縄で濃厚なアニミズムの文化をもっている。北海道にはアイヌ人がいる。縄文系と弥生系の顔つき体つきの違いは現代でもある。近代になって日本統治化の朝鮮半島から来た人たちもいる。
それぞれがそれぞれに文化をもち、つくり、現在に至っている。
紛れもない多民族国家である。

と、言いましても、
国家という制度のもとでは単一民族という幻想のもとに生きるしかなく、小資本が大資本に吸収されていくように、国家になりきれなかった民族は国家になった民族に吸収されるしかない。チベット然り、コソボ然り、バスク然り……

でも、私は文化にヒエラルキーを持ち込んでほしくはない。どの文化にも、いま生まれつつある文化もどれもがそれぞれに面白く。好きか嫌いかは個人の問題なので仕方がないけれど、そこに「尊さ」を持ち込む意味も理由もない。いわゆる自惚れに値するけれど、それも個人の問題である。

そうだ、京都へ行こう。

わざわざたいそうに言わなくても、行きたければ個人で勝手に行けば良いのである。

京都に行くことが素晴らしいのではなく、京都が好きだとか興味をもった、という発見と経験が素晴らしいのでは?

と、テレビをみていて思いました。