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まことしやかにもの知らぬふりをして<準備>

自己処理

 

お写真でお見せした方が早いのですが、私の部屋というのはどうゆう部屋かと申しますと、本棚にはここぞとばかりに漫画と書籍が押し込まれ、本と本の間には、どこぞで買った得体の知れぬものが押し込まれている。壁にはだれかれの絵だとか、ポスターだとか神社のお札だとか、はたから見ればゴミというゴミが壁に貼り付けられている。

という物欲に化粧を施したかのような部屋の中にいる。というか物に囲まれた安心感、書籍という知に浸ることができる安心感という無為の産物に身を置いている。

もちろんその物たちを手に入れるには背景があり、アマゾンのワンクリックで手に入れたものであろうと、そこには手に入れるための必要十分条件が備わっていなければ、それはワンクリックにはいたらない。物欲というものも、個人的行為に基づいていようとも、それが果たして本当に個人一人の問題に帰結しているのかどうかという部分まで加味されなければならない。

この展示室とも呼ぶべき室内空間は、私の人生の物語を包括したミクロコスモスなのである。それは私が社会と接した瞬間の記憶物であり、仮想的なコミュニティが可視化された空間であるともいえる。

 

若いときは森に住むべきではない。

 

森に戻って1年が経とうとしている。この森ほど社会との近接さを感じないところはない。おいそれと定年退職し世間に疲れ、退職金で田舎に住みたがる人がいるけれど、気持ちが晴れるのは最初の数ヶ月だろう。

都市で暮らしていた人が、いきなり田舎に来て「はい、こんにちは、これからよろしくおねがいします」と言ったところで、無視されるのは目に見えているし、「はい、こんにちは」という相手が、物理的に歩いていける距離に存在するのかどうか、ということも問題である。

都市から地方へ。という移住ブームはどことなく昨今は収束したように見える。それもおそらく、居住環境の変化に対応できるか否かというところにあるのかもしれない。

また、それよりも大きな問題は都市で作り上げてきたコミュニティを捨てることができるのか、という問題もあるだろう。多かれ少なかれ、、都市で何十年も住まえば、その周囲、仕事、趣味と言った点で何らかのコミュニティに属することになるだろうし、それが生きる資本となってその人の社会活動に寄与するところも大きいだろう。

ネットがあるじゃないか、とも言うけれど、例えば私自身の話で言えば、メールや電話を駆使して行えば出来ないこともないが、じれったさを感じ、イライラさせられることが多かった。実際に「会う」という行為の重要性を痛切に感じる一年であったことは言うまでもない。言葉を発する人のアウラに得るところも多い。

森はかくしてコミュニティを断絶し、果ては野獣か仙人か、と私をメルヘン男子へと改変していくほどの力を持っている。同じ穴の狢を待ち構えているコミュニティは幾らでもあるのだけれども、私は入りたいと思う穴はなく、なければ掘ればいいじゃないか、というけれど、そこは極めてコンサベーティブな空気が充満しているのである。

 

火を放てばバーストするほどに・・・

 

「いつか王子様が・・・」というのは、やはりファンタジーな世界のことなので、そんなものは待っていてもどうしようもない。新海監督の大ヒット中の映画も不可能の実現、絶対性の肯定なんてあまちょろい事をやって一般人に人気を得ているけれど、そんな嘘ばかりつかれると、嫌気がさしてしまう。

毎晩、羊羹はたべられない。

胸焼けに二日酔いが組み合わさったような感覚で混沌と眩暈に巻き込まれ、とても安心、安全な生活には至れそうもないのである。安心安全なセックスライフはコンドームかパイプカットでもすれば営むことができるけれども、実際の暮らしはそうもいかない。

 

人間は関係性の中でしか生きられない。