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Review : 映画「君の名は」

警告!!

本編内容の結末まで書かれています。

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まずはどのようなストーリーであるか、説明します。

 

岐阜の飛騨地方の片田舎(糸守という町)に住む、女子高校生「みつは」は神社の娘であり、巫女をしていた。しかし、一方では東京への憧れがあり、生まれ変わったらイケメン男子高校生になりたいと叫ぶほどであった。

東京新宿に住む男子高校生「たき」はレストランでアルバイトをしながら建築を志しながら日々を過ごしていた。

あるとき、この二人は朝、目を醒ますと入れ替わっていた。

二人ともきっとこれは夢だろうと、誤魔化しながら過ごしていたが、どうもこれは夢じゃないらしいということに気が付く。

そんな入れ替わりが週に2,3度あるような日々を過ごしながら、糸守でのお祭りの日が近づいてきた、みつはは巫女の仕事でもある口噛み酒を作り、おばあさんと妹を連れて神社の御神体へと山を登って、口噛み酒を奉納した。

お祭りの日、それは1200年周期の彗星がもっとも地球に近づく日でもあった。そしてその日を境に二人に入れ替わりもなくなってしまった。不思議に思いながらたきは万が一のために知らせておいた電話番号に電話をしてみた。しかし、繋がることは一度もなく、たきは記憶を頼りに場所を調べ、飛騨へと向かうことにした。

そこでたきが知ったのは糸守という町は3年前の彗星の衝突で町ごと消滅し町民の大半も亡くなっていた。死傷者名簿をみるとそこにみつはの名もあり、たきが入れ替わっていたのは3年前の彼女であると知った。

たきは望みを捨てきれず、みつはの口噛み酒を飲めばまた入れ替われるのかもしれないと考え御神体の山を登った。そこで口噛み酒を飲み、再び入れ替わる。入れ替わったたきは彗星から町を救おうと奔走するも住民はなかなか信じてくれない。再び御神体に登る、時刻は黄昏時、彗星が軌跡を描いて落ちてくるのが見えてくる。どこからか声がきこえ、たきとみつはは3年という時間を越えてすれ違う、太陽が地平に沈む瞬間、彼らは出会うことができた。そして入れ替わりは解かれ、またもとの自分へと戻っていく。

しかし、その瞬間二人はお互いの記憶がなくなっていく。未来が変わったのだ。みつはは町を彗星の衝突から守ったからである。二人とも、時を過ごせば過ごすほど、お互いの存在の記憶が消えていく。でも、あれは大事な人だと思っている、それなのに、思い出せない。

たきの時間から5年後、お互いに誰かを探しながら日々を過ごしていた。生き残ったみつはも憧れの東京へと出てきていて、彼女もまた誰かを探しながら、そしてお互いになにかすれ違う気配を感じながら過ごしていた。

ある日、彼らは電車で窓越しにすれ違った。

お互い電車を飛び降り、走り出す。住宅地の階段で二人は出会うのだが、記憶がない。「そうかもしれない」という不安の中で声を掛けられずにすれ違う。たきは階段を登りきり、みつはは階段を下りていく、たきは意を決して声をかけた「あの・・・どこかでお会いしませんでしたか!」と、みつはは涙を浮かべ「私もそう思ってました」と。

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[ Rewiew ]

 

新海誠監督の作品は大学生の頃に初めてみた。

雲の向こう、約束の場所

秒速5センチメートル

彼の描く風景描写の美しさ、そして出会いと恋とすれ違いというセンチメンタルな心象風景の刹那さに惹かれていた。

彼の骨頂とするものは、ここに凝縮されていると思っていた。

また、彼が描きたいことはそれであると思っていた。

「君の名は」という物語にもその彼が一貫して描いていた風景の美しさと時空を越えた出会いとすれ違いのセンチメンタルさがあると思った。だが、最後の最後でそれは裏切られる形で終わった。階段の上からたきが意を決してみつはに声をかけることによって、彼らは再び出会ってしまったのだ。

奇跡が起こったのである。

その奇跡を発生させるために、この映画の「すれ違い」の描かれ方は以前にも増して強く描かれていた。

薄れゆく記憶の忘却のスピード、映画全体の音楽を監修したRadwinpsの音楽とその歌詞は奇跡を渇望する思案のようにも聴こえた。映画終盤に流れる曲「スパークル」の歌詞の一節を見ると、そのすれ違いと忘却のスピードへの拮抗が見えてくる。

 

Radwimps「スパークル」歌詞 抜粋

・・・

運命だとか未来とかって 言葉がどれだけ手を

伸ばそうと届かない 場所で僕らは恋をする

時計の針も二人も 横目に見ながら進む

そんな世界を二人で 一生 いや、何章でも

生き抜いていこう

 

決して時間に抗うことは出来ず、どこかに居るはずの僕と君は出会えるかどうかわからないけど、生きていこう、という決意表明にみえる。

このようにすれ違いは増長され、私はこの映画に引き込まれていった。最後のシーンを見るまでは…

 

私は新海監督の映画にこれほどにも人が集まることに疑問符が付いていた。

彼の描くこのすれ違いのセンチメンタルさは一般ウケすることがないと思っていたからである。今を生きる人は、心のどこかで奇跡とか希望とか夢を持っており、儚くもそれが現実化すればいいな、と思っている。だからこそ映画や物語でぐらい、そうした奇跡が現実化するという夢を見たっていいじゃないか、とも思っている。新海監督はこれに気づいたのか誑かされたのかわからないが、たきとみつはを出会わせた。それは奇跡の現実化が起こったのである。

 

大衆に魂を売ったのだ。

 

私は今まで彼が描いてきたすれ違いのセンチメンタルさに現実を見ていた。それは恋をしてもそれが実ることはいつもあるわけじゃなく、またどこかでいつか出会う人と、どこかですれ違っているのかもしれない、と。

恋をしている間の陶酔感以前に感じる刹那さを彼の映画で現実を直視させられる。僕らは現実をそれでも生きなければならないんだと、泣いている場合じゃない、と言っているようにも思った。そういった意味で彼が使うSF的ストーリーも非現実でありながらも、その中でおこる人間の心の動きを緻密に描き、その対照性によって効果的に現実を描いていた。

だが、「君の名は」に関して言えば、それはSFという手法を使い、ましてはラストシーンでの奇跡の現実化を持って、この映画は完全なる非現実を描いている。

これが大衆にウケる理由の大筋だろう。

 

と考えると、私はこの「大衆」というものが怖くも思えた。

なぜそこまで奇跡の現実化を渇望するのかという点に対してである。

帰りのバスでふと考えていると、先日おきたTokyo Design week2016で起きた事故のことを思い出した。

あの事故の後の夜、主催者が謝罪会見を簡易的ではあるが開かれた。そこで述べられたのは次のような内容である。

 

東京・明治神宮外苑の軟式球場で行われていた「東京デザインウイーク2016」で火災が起こり、港区の男児(5)が死亡したことについて、この日夜、東京デザインウイーク社長の川崎健二氏と、学校作品展を担当する多摩美大の田淵諭氏が会見を行った。

 報道陣の前に現れた2人は深々と頭を下げ、川崎氏は「尊い5歳のお子さまが亡くなられたこと、本当に慚愧(ざんき)に堪えません。主催者として重く受け止めております。申し訳ございません。悔しくて悔しくてしょうがありません。警察、消防で原因究明しています。それを待ってご報告申し上げたい」と謝罪した。

 田淵氏も「デザインに夢を持って訪れたであろうお子さまを死なせてしまいました。未来を考えると、無念でなりません。心からおわび申し上げます」。

 川崎氏は、男児の自宅を今夜訪ねるという。最終日の7日はイベントは中止する。


参照元Yahoo!ニュース
明治神宮外苑イベント火災、関係者が謝罪「無念…」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161106-01734628-nksports-soci

 

この田淵氏の「デザインに夢を持って訪れたであろう・・・」という言葉に何か違和感を感じざるをえなかった。

私はデザインというものが決して夢を与えるものではないと思っている。むしろ人間が人間であることを自覚するものがデザインであると思っている。

それは、人間が用いるために発生するどうにも回避しようがない現実だとおもう。その回避しようのない現実をどう受け止め、整理し、提示していくかというところがデザインの難しいところであり、面白いところなのだとおもう。

夢は所詮、夢である。

それは非現実を夢想することで、その夢がデザインを提示していく段階で決していつもいつも夢を実現するものであるとは思わない。

つまり夢のような風景をつくることが必ずしもすばらしいデザイン性をもっているとは限らないからである。今回の事故で作られた構造物をみると、それは木材のがむき出しで、火事以前に木材の鋭利さで事故が起こったのかもしれない。事故を起こしていない作品もどうようにその可能性はあったのである。

夢はイリュージョンである。それゆえ仕掛けはある。だからこそその仕掛けがデザインかと言えば、それは違う。

そう考えると、この田淵氏の発言は益々違和感を感じざるをえない。

 

このTokyo Design weekはつまりはコンセプトとしてそれを包含していたということ、それは「人に夢を与えるデザイン」というものを。

 

「君の名は」での奇跡の現実化、デザインウィークでの夢の提示、この2つの例だけでも、なにかこの世界が「希望」という病にとりつかれているように思える。

 

この「希望」という病は一体、なにものなんだ・・・