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死は希望である

文化

 

こんなふうに書いたり言ったりすると、よく方々からお叱りがある。

「けしからん」と。

バカだと思った。「死」という言葉に過剰反応し、拒絶する。

あんたもいつか死ぬのよ。

 

 

「死は希望である。」

 

私は小学生も1年生のころから、なぜだか大病ばかりして、夏休みになれば、入院し、手術をしていた。でなければ、脳みそが溶けてしまうというのだ。仕方ない。そのため、夏休みの楽しい思い出というのは一切なく、家族とどこどこに行きました、などという話は皆無であった。

 

あるとき思った。この病気が発見されるまでに、たくさんの人がこの病気で死んでいるんだろう。そして治療法を見つけるまでにもたくさんの人が死んでいるのだろう。

 

私が生きているということは、そうした死屍累々の屍の上に成り立っているのだ、と。

 

まさに死は希望である。

医療の進歩は日進月歩、iPSが実用化されるのも時間の問題である。だが、それを待たずして死に逝く人も多かろう。だが、これも希望である。

 

死んだ人を慈しむことほど、無駄なことはない。

「弔う」とはどうゆうことか。

それは「亡き者」が「亡き者」になってしまわないように、どうするべきか考え行動することである。祈ることに意味などない。祈りとは、次の手立てがなくなったときの最後の手段なのである。

 

愛知県で死亡事故があった。運転中にスマホでゲームをしていた人が、通学中の子供を車で轢いてしまった。その父親は当初は無念さに明け暮れていたが、その後すぐに市長へ嘆願書を提出、ゲーム運営会社への働きかけなど事故が再発されないよう彼なりに行動を起こしていた。ある人は言った。

「子供が死んだのに、よくそんなことやってられるなぁ」と。

この人は「弔い」が何か、まったくわかっていない。

 

自分の子供を亡くす無念さを、もう誰にも味わって欲しくない、と思って行動を起こす。これが弔いである。この父親は息子を轢いた人を殺したいと思ったかもしれない、自分さえも死んで息子の傍に行ってやりたいと思ったかもしれない。だけれども、この父親はそれらが息子の死を弔うためには何の意味もないとわかっているのだろう。

 

我々の社会的な幸せはただ一つではないか。

我々の共同体を守り、安心、安全に暮らすこと。そしてそれが出来るだけ長く続くことだと思う。

 

事故を起こした人に向かって「こうすれば、こうなるとわかっていたはずだ」と罵ることも無意味である。所詮は過去推量の範疇でしかない。「こうすると、こうなることがわかっていない」から、こうゆう事故が発生してしまうのだ。

外苑前の火災事故でも、バッシングがひどかった。「おがくずに白熱灯を当てれば火がつくことくらいわかるだろう」と。人々は言うけれど、それは蒙昧無知である。わかっていないから、そうしてしまうのだ。

 

我々は自分がバカだということを知らない。

我々はバカであることを前提にものを考えていかなければならない。

私も、あんたもバカなのよ。 

 

では、こういった事故・事件が再発しないようにどうするの?ってことを考えることで人間は進歩をしてきたはずであるのに、過去推量の範疇で、起こったことを批判しつづけている。

 

死は希望である。

 

あの男の子が亡くなってしまったことの原因と理由と対策を実行委員会も大学も学生も地獄の底まで追及しなければならないし、それがあの男の子と両親に対する弔いであり、酬いである。

 

謝罪などゴミにもならない。

慈しむな。

祈るな。

批判するな。

 

狂気の世界で戦う人の邪魔をするな。