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技術偏向

私の作品をみて、「これくらいなら私でもできるわ」とのたまっている人がいた。聞こえてますよー。

やれるもんならやってみろよ。

シンプルなものほど難しいことも知らぬ愚か者だ。

実際に作ることへの実践性に貨幣の交換原則が成り立つことも知らず、このようなマーケットに足を向けるとはどうゆうことかと悩まされた。

しかし、昨今、技術を見えるように作られているものが多くあるのは、そういった人に対する対策なのだろうかとも思った。コンペでも、技法に関して執拗に問われるのも、こうした傾向の一つなのかもしれない。

だけれども、その技法を見せつけることほど浅ましいものはない。「おれはこんなだれもやっていない技法で作ってるんだぜ」と言われても、ああそうですか、がんばってくださいね、と声をかけることが精々だ。

粋じゃない。

「粋」というのは、たとえば法被の裏地が素敵な柄で、風が吹いたときにはらりとみえたり、ただの煮物にしか見えないのだけれども、聞いてみれば出汁の取り方がとんでもなく凝っていたりと、問うまでわからないといったもの。つまりは見えないところに気を使う、背徳的な美意識だと思う。いいかえれば、それはオタク文化におけるマニア性だともいえる。

美術作品と芸術作品の違いもここにあるとおもわれる。芸術に美しさが不必要なのはそういった理由にもあるのだろう。
美術は美しくなければいけない。だか、それが形態や色の美しさに終始するのかといえば、否だ。美しさは粋でもある。いなせなものかもしるない。侘や寂なのかもしれない。粋だからと言って、それが形態的に美しいという必然性はどこにもないのである。

技術は所詮技術なのである、「されど」とそのあとに続くけれど、技術は美術ではない。

職人といえども、美術を知らぬ職人の技術は高々知れている。程度の低さは現代でもあまた見受けられる。

技術とはそうゆうものなのだ。

そういった意味で、技術を見せる作品は全く美しくない。下世話で、野暮で、下品だ。