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内緒のはなし

芸術 観察

ゴッホゴーギャン展をどう見るべきか?

久しぶりに名鉄に乗ると、ゴッホゴーギャン展のチラシがあちらこちらに貼られている。家にも招待券があり、行ってみようかと思っている。

しかし、いまの自分は、果して純粋に見ることができるのか甚だ疑問である。世間の手垢にまみれてしまったゴッホゴーギャンも余計な知識と偏見に苛まれ、絵を絵として観られるのか不安でならない。

見に来る客層の予想も容易にでき、その絵の前で交わされる会話の中身も想像するだに、途端疲弊してしまう。

絵を見ているのか、客の会話を聞いているのか、客の後頭部を見ているのか。私は一体何を見に行くのだろうか。

美大では、クールベからモダニズムまでの変遷を習ってしまったし、弟テオの画商としての巧みさも知ってしまったし、とある論文では、耳を切ったのはアーティストとしてのパフォーマンスの可能性があると、書かれているのを読んでしまった。既に「ハプニング」は行われていたのか…

もうダメだ。絵が見えない。ひまわりが偽物としか見えない。

手垢にまみれてしまうと、なぜこうも純粋に作品も作家も見られなくなってしまうのだろうか。やはり作品も作家もどこか秘匿性というものがあったほうがそそられるようにおもえる。

A secret makes a woman woman.

ということなのでしょう。
「わかる」作品よりも、「わからない」作品に魅力が湧くのは知り尽くされていないことによる、知的好奇心の眼差しが向くから、なのかもしれません。

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舞台の袖に携う彼も

花の匂いに散りはてて

山の王者の声色を知る

ドミノの後の客席は白く

その余りある言葉が香る