日陰の行方

日向に生きる者の生き方はたくさんあるけれど、日陰に生きる者は一体どのように生きていけば良いのだろうか?

 

と、日々思うのです。こうゆうことを書くとポジティブメッセージという無意味な言葉をかけられるのですが、そうゆうことを言われたいわけではなく、ただ、そう思う人は少なからずいるとも思うのです。

 

例えば、「殺人は悪だ」と考えられているわけですが、自分が殺人者になる可能性を考えたことはあるでしょうか?というとまたまた、「そんなことを考えることは不謹慎だ」と言われるわけですね。でも、言いたいのは「お前、それ思考停止してるぞ」って言いたいわけです。可能性としてゼロなんてことは神でもない、いや神でさえもわからないかもしれないのです。そうやって道徳的観念を持って生きていくことが普通なのでしょうが、そうゆう器用なことができないわけなんです。そして、考えることさえも道徳に縛り付けられ、許されないというのならば、こんな国からはさっさと出ていこうとも思うのです。

 

話を戻して、先に、なんで殺人という話題を持ってきたのかというのも、私は新聞の切り抜きをしてまして、いくつかあるカテゴリーの一つに「矛盾する法」という分類があるんですね。そこには事件に関する記事を収集していていまして、法というものの無矛盾性をあぶり出していくスクラップブックになっているんです。

 

そんな記事の中には「光市母子殺害事件」や、名前のつかない事件がいくつもスクラップされているのです。老々介護のなか、助けを求めることもできず、介護に疲れはて心中してしまう事件、受験戦争に巻き込まれ親の大きすぎる期待度に疲れた子供が親を殺してしまう事件。読んでいてやるせない気持ちになります。

 

これらの記事はやりようのない怒りとも悲しみともつかない気持ちを抱かせ、私はしばらく茫然とさせられるのです。殺すことがもちろん良いわけではないけれど、そうするしかない、という選択の余地がない環境がそこにはあるわけで、それを見ない振りをしていくことはあまりにも愚鈍なことだと思うのです。そんな環境があることを考慮することなく、「殺すなんてひどいよね」の一言で済まされることほど刹那なこともないと思うのです。

 

それらの記事は、また私にこう言うのです。

「あなたが当事者になる可能性もある」と。

 

もし私が病気になって働けなくなり、身寄りもなく、誰にも助けを求める人がいなくて、あまりにもお腹がすいて財布には10円しかなかったら。電気も水道も止まり、住むところもなくなり、考える余裕すらなくなって。

 

こんなとき私はどんな行動をとるのだろう。 

 

こんな想像は考えたくはないけれど、そうならないという可能性はゼロではないんですね。