キモい絵

キモい絵を見つけた。

 

僕は何年も東京にいたが、上野の西洋美術館に訪れることは無かった。

建物に興味はあったが、行われる企画が悉く興味を引かなかったからである。

 

先日も今回こそはと思って調べてみると、「プラド美術館展」とのこと。

「スペイン由来の絵画か・・・」と思い、おそるおそる蓋を開けてみれば、メインは「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」であるとな。

見れば、ぶくぶくと太った子供が、嘶く馬に跨って、ドヤ顔をしてこちらを見つめているのである。背景にはピレネー山脈らしき山々が描かれ、「これを馬で越えてやる!」とでも、言いたそうである。

 

マジでキモい。

 

今回ばかりは、「興味の無さ」というよりか、「気持ち悪さ」が勝った。

マニエリスムの時期の絵画、ルネサンス後期の絵画(メディチ家が隆盛した時代)も含め、どうもこの時期の絵画は生理的に受け付けない。

 

近い時代でも、ロココのようなアホっぽさ。

バロックのような下衆さ。

これらの方が人間的で愛らしい。

マニエリスムについて言えば、どこか自然を凌駕してやろうと、手を加えすぎていることが「キモさ」の原因なのだと思う。

 

そう「キモい」のである。

二村ヒトシ氏著「すべてはモテるためである」という本の中で、モテない理由を一言で冒頭に記述している。

「なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルイからでしょう」と。

この「絵画のキモさ」と「もてない人のキモさ」は要素を還元していけば同じものであると考えた。

 

二村氏は本書の中でキモさについて自己評価と現実のギャップを通して論述している。

つまり、もてようとしてうわべを色々取り繕っていくことで、かえってその欠点、言い換えれば穴が目立ってきて、さらにその欠点・穴を埋めようとして、ほかの穴が見えてくる。そんなことを繰り返すことで、いびつさが生まれて「キモく」なるのである。

自己評価と現実を自身によって乖離させていってしまっているのである。

 

このカルロス騎馬像においても、同様に「キモさ」を醸し出している。

子供の弱さや幼さとは決して消えるものではなく、それを隠そうと馬に乗せ、その馬を嘶かせ、権威ある服を着させ、ピレネー山脈を描いてみたり・・・と、取り繕いが複合的に交差し、もはや描かない方が良かったのではないかと思うくらいの「いびつさ」がそこにはある。

カルロスも騎馬も、もはや王太子さえもいびつさの中に消え、巨大な「穴」しか描かれていないのである。

 

自然を凌駕しようとした結果が、自然の複合性、思惟性、偶然性・・・そうしたものを絵の中で隠していくことで、逆にそれらがあらわになってきてしまっている。彼らが描きたかったものとは、真逆のものを描いている事に気づいていない。

それすらも自己評価と現実のギャップとして現れている。

 

これがマニエリスム系絵画の「キモさ」の由来であろう。

 

自覚的に理想を作り上げること、と

無自覚的に理想を作り上げることは全く違う問題であり、

後者は圧倒的なまでに「キモい」。

 

 

ここまでキモさを感じさせてくれる絵を見たのは久しぶりだったので、

「実物を観なければ!」とも思った。

しかし、あれはあれで高価なので

僕の吐瀉物で絵を汚してはいかん!と思い、

見に行くのはやめた。